●義援金・救援金の募集について
西城さとやま交流館の東日本大震災の支援活動はまだまだ続きます。
皆様の気持ちを被災地に届けたいと思います。
どうかこれからもご支援をお願いします。
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2025年2月8日土曜日

奥備後も雪景色

広島県と島根県、鳥取県の県境は1m超え。災害支援用ハイエースが置いてある奥備後 庄原市口和町でも、久々の60cm超え。ハイエースも,雪だるまに。
能登の被災地では、仮設住まいの中で、雪かきが必要になり、寒さも一層厳しくなり大変だと思います。次の支援は,どういうことができるか,検討中です。前柳生理事長に叱られそうです。考えとるばっかりじゃあダメじゃ。すぐに動けと。

2025年1月27日月曜日

さとやま支援米スタート

今年も、コメ作りの始まりです。
また、秋には能登へ持って行きます。さとやま交流米。奥備後の郷で寒風の中、荒起こしです。10日に降った雪が,やっと消え、晴れ間も見える。栄養たっぷり口和のモーモー堆肥をすき込み、土づくり。秋には美味しいコシヒカリを能登に持っていけますように。

2025年1月19日日曜日

あなたの笑顔が見たい

 1月17日中国新聞。
 さとやま交流館の活動が掲載されました。

阪神大震災から30年 その9

 高齢者施設のリスク
 高齢者福祉村のような高齢者対応のいろんな建物が、敷地内に集められた場所のシルバーマンションたるところに行った。水配りや何でも屋である。
 先ずマンションの入り口で地盤沈下のため、周りが下がって50cmくらいの段差。この段差がかなりひどく。元気な我々でも、よっこらしょである。
 高層マンションは、元気な高齢者ばかりで、普段はエレベーターがあり快適らしい。しかし、神戸と言う大都会直下でほとんど全てのエレベーターを強い揺れに遭い、ほとんどのエレベーターが点検するまで動かない事になっていた。私が行ったシルバーマンションは、点検優先度が低かったのか、未だに未点検、動かずです。
 普段は便利なエレベーターですが、地震にはものすごく弱い。
 低層の建物には、介護の必要な方が入る特別擁護老人ホーム。ここは、それなりに,介護士さんたちにより、なんとかなっているようだった。
 普通の高層マンションなら,まだ近所の若い人が、少しは助けてくれるかも知れないが、老人マンションでは、隣も高齢者。助け合うにも限界が。
 効率化も、普段は良いが、危機管理事象の時には、大きな足枷となる。1パーセントにも満たない、危機管理事象をどれだけ意識して、住まいを選択するか、行政も計画するか。
 ただ、その1パーセント以下の事象が起きた時、大きな後悔を感ずるのではなかろうか。
 大都市一極集中と大災害の問題は、地震でも、大雨でも語られています。効率良いコンパクトな町が被災したら、誰が助けてくれるのか,考えてほしい。

阪神大震災から30年 その8

 震災がら3週間が過ぎていたが、コンビニの中は、空っぽだった。道路がとおれず、災害支援などの車を通すために、その他の車を規制していたので、配送ができなかったのか。買おうにも店に無いから、やはり支援物資を配布するボランティア頼みだった。
 

阪神大震災から30年 その7

 避難所の近くの家の前で、茶色の雑誌の日本犬が紐を外した状態で、いつも同じ場所に座っていた。時々その前を人が通ってもおとなしく、何か寂しそうにしている。ボランティアの一人が余ったパンをやっても食べようとしない。近所のおじさんが通りがかりに教えてくれた。この犬は,あばあさんと一緒にその家に住んでいたのだが、地震の時におばあさんが救急車で病院に運ばれ、その日以来ここで、じっとおばあさんの帰りを待っていると言う。話しを聞いた私もボランティアの仲間も皆目頭を熱くした。
 なんとか元気に生きてほしいとボランティアのみんなが、毎日自分の食べものの中から、少しずつ分けてやった。

阪神大震災から30年 その6

 なぜボランティアが、いちいち配らないといけないんだろう。取りに来てくれたらいいのに。と,単純に感じモヤモヤがあった。
 現実はたいへんでした。皆さんの座り場所、寝る場所もはっきり境目が決まっているわけではありません。壁も金庫もありません。自分の場所を離れると他人に場所を少しずつ取られるんじゃ無いか、盗難に遭うんじゃ無いかと言う不安がありました。実際、盗難が起きていました。被災者の方ではなく外部から入ってきたのでは無いと思います。また、高齢者も多く段差の多い学校で移動そのものが困難な方もおられました。だから、みんななるべく自分の場所から離れないようにされていたのです。
 その話しを先輩のボランティアや被災者の方から聞いて、合点がいった。それからは、朝一番に感じたモヤモヤもなくなり、気持ちよく配布作業もできた。
 事情も知らずに勝手に被災者を怠け者のように考えてしまった自分を恥じた。

2025年1月18日土曜日

阪神大震災から30年 その5

 ある日は、自転車の配布を行った。
 朝、自転車の受入,配布を行う公園へ。
 定刻前に大型トラックが一台到着。荷台には、自転車が満載。
 神戸では、電車が全てストップ。道路も地下鉄陥没や高速道路倒壊など。移動の主力として自転車の需要が高まっていた。
 その状況を知ったボランティアの一人が、地元に帰った後、中古自転車の協力をお願いして、毎週トラック一台分を送っていた。
 到着予定時刻までには、続々と被災者の方が集まり、トラックから降ろすと直ぐに貰われていった。
 現地ニーズの把握と現地との連携、スピーディーな対応が大切だと思った。
 さとやま交流館でも、災害後は、現地ニーズの把握に先ず努めている。

阪神大震災から30年 その4

 神戸での活動は様々でした。
 断水した高層マンションで、両手に水タンク20リットルをもって階段上がった。
 特に高齢者ばかりのシルバーマンションは、何度も水を組み直して全戸を回った。ある部屋では、高齢のお爺さん一人、テレビを見て「まだわしらはいいよ。家が壊れてないから。市へ支援のお願いはできんよ。」と。さらに衝撃だったのは、地震後、部屋に来たのは私が初めてだと言う。もう1ヶ月近く経っているとうのにである。子供とは電話で話して、元気だと伝えたら、良かったと言うのみで、見に来てはいない。
 中は、タンスは倒れ、トイレのドアはノブが外れていた。そして部屋のメインとなる壁の絵の額縁が斜めになっている。中に入らせてもらって、タンスを起こしたり、トイレのノブも治すことができた。そして、額縁も水平に治した。部屋は見違えるように落ち着いた。お爺さんが、額縁が治ったらホッとしたと笑顔になった。些細なことでも、毎日生活する中では、大切なことだったのだ。
 センターに依頼は無いが、私らのやることはまだまだたくさんあると気づいた。そして、このままでは、孤立死が増えるのではと、危機感を持った。
 センターに戻り夕方の反省会でそれを伝えると、皆も同感だった。

2025年1月17日金曜日

阪神大震災から30年 その3


 翌日2月11日は、700人の避難者がいる小学校へ行った。
 学校の中は、体育館内はみんな全く隣の人と隔てる壁はなく、今で言うプライバシーは全く無い。
 校舎にはいると階段以外、廊下にもいっぱい、各教室も被災者でいっぱいでした。(朝ドラおむすびの震災時の描写はそのものだと感じました)
 玄関で支援物資や食事のお弁当などの受付があり、1日3回朝のパン、昼のパン、夜のお弁当が700程運ばれてきて、それを体育館や各教室へ配った。
 玄関横の倉庫には、配布前の支援物資がうず高く積まれていた。
中には、食料もあり、生ものもあった。各避難所に一人配置されている神戸市の職員に聞くと数が全員分無いから配れないとのこと。じゃあ、いつ配るのかと聞くにと、きっと配れないだろう、との事。それはせっかくの美味しい食材を棄てることを意味します。
 市役所の人は、平等が厳しいと思うが,我々ボランティアは、もう少し自由度があると認識していたので、ボランティアの判断でカステラのようなものなどを子供、高齢者を優先にして配り、足らなくなった人には乾パンやビスケットなどを配った。ほとんどの人は、それを喜んでくれたが、一部の人からクレームが出た。元気な40代50代の男性方だ。なぜ、私は乾パンなのかと、ボランティアが理解を求めて一生懸命説明したが、理解得られず、ボランティアの女の子は泣き出した。ボランティアセンターとも相談し、一旦その避難所からボランティアを引き上げた。被災者の方で、まとめ役を選んで欲しいとお願いした。
翌日1日は、その避難所の支援は休止した。その日の夕方、避難所からセンターに、まとめ役を選んだと連絡があり、翌日から支援を再開。その後は、ボランティアと被災者のまとめ役で一緒に考えて物資の配布などが効率的に、棄てることなく、配布できるようになった。
 避難所には、毎日、知り合いや家族がここに避難していないか訪ねて来られる方がたくさんいました。
 そして子供たちと遊んでやるのも、大切な支援でした。