●義援金・救援金の募集について
西城さとやま交流館の東日本大震災の支援活動はまだまだ続きます。
皆様の気持ちを被災地に届けたいと思います。
どうかこれからもご支援をお願いします。
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2025年1月19日日曜日

あなたの笑顔が見たい

 1月17日中国新聞。
 さとやま交流館の活動が掲載されました。

阪神大震災から30年 その9

 高齢者施設のリスク
 高齢者福祉村のような高齢者対応のいろんな建物が、敷地内に集められた場所のシルバーマンションたるところに行った。水配りや何でも屋である。
 先ずマンションの入り口で地盤沈下のため、周りが下がって50cmくらいの段差。この段差がかなりひどく。元気な我々でも、よっこらしょである。
 高層マンションは、元気な高齢者ばかりで、普段はエレベーターがあり快適らしい。しかし、神戸と言う大都会直下でほとんど全てのエレベーターを強い揺れに遭い、ほとんどのエレベーターが点検するまで動かない事になっていた。私が行ったシルバーマンションは、点検優先度が低かったのか、未だに未点検、動かずです。
 普段は便利なエレベーターですが、地震にはものすごく弱い。
 低層の建物には、介護の必要な方が入る特別擁護老人ホーム。ここは、それなりに,介護士さんたちにより、なんとかなっているようだった。
 普通の高層マンションなら,まだ近所の若い人が、少しは助けてくれるかも知れないが、老人マンションでは、隣も高齢者。助け合うにも限界が。
 効率化も、普段は良いが、危機管理事象の時には、大きな足枷となる。1パーセントにも満たない、危機管理事象をどれだけ意識して、住まいを選択するか、行政も計画するか。
 ただ、その1パーセント以下の事象が起きた時、大きな後悔を感ずるのではなかろうか。
 大都市一極集中と大災害の問題は、地震でも、大雨でも語られています。効率良いコンパクトな町が被災したら、誰が助けてくれるのか,考えてほしい。

阪神大震災から30年 その8

 震災がら3週間が過ぎていたが、コンビニの中は、空っぽだった。道路がとおれず、災害支援などの車を通すために、その他の車を規制していたので、配送ができなかったのか。買おうにも店に無いから、やはり支援物資を配布するボランティア頼みだった。
 

阪神大震災から30年 その7

 避難所の近くの家の前で、茶色の雑誌の日本犬が紐を外した状態で、いつも同じ場所に座っていた。時々その前を人が通ってもおとなしく、何か寂しそうにしている。ボランティアの一人が余ったパンをやっても食べようとしない。近所のおじさんが通りがかりに教えてくれた。この犬は,あばあさんと一緒にその家に住んでいたのだが、地震の時におばあさんが救急車で病院に運ばれ、その日以来ここで、じっとおばあさんの帰りを待っていると言う。話しを聞いた私もボランティアの仲間も皆目頭を熱くした。
 なんとか元気に生きてほしいとボランティアのみんなが、毎日自分の食べものの中から、少しずつ分けてやった。

阪神大震災から30年 その6

 なぜボランティアが、いちいち配らないといけないんだろう。取りに来てくれたらいいのに。と,単純に感じモヤモヤがあった。
 現実はたいへんでした。皆さんの座り場所、寝る場所もはっきり境目が決まっているわけではありません。壁も金庫もありません。自分の場所を離れると他人に場所を少しずつ取られるんじゃ無いか、盗難に遭うんじゃ無いかと言う不安がありました。実際、盗難が起きていました。被災者の方ではなく外部から入ってきたのでは無いと思います。また、高齢者も多く段差の多い学校で移動そのものが困難な方もおられました。だから、みんななるべく自分の場所から離れないようにされていたのです。
 その話しを先輩のボランティアや被災者の方から聞いて、合点がいった。それからは、朝一番に感じたモヤモヤもなくなり、気持ちよく配布作業もできた。
 事情も知らずに勝手に被災者を怠け者のように考えてしまった自分を恥じた。

2025年1月18日土曜日

阪神大震災から30年 その5

 ある日は、自転車の配布を行った。
 朝、自転車の受入,配布を行う公園へ。
 定刻前に大型トラックが一台到着。荷台には、自転車が満載。
 神戸では、電車が全てストップ。道路も地下鉄陥没や高速道路倒壊など。移動の主力として自転車の需要が高まっていた。
 その状況を知ったボランティアの一人が、地元に帰った後、中古自転車の協力をお願いして、毎週トラック一台分を送っていた。
 到着予定時刻までには、続々と被災者の方が集まり、トラックから降ろすと直ぐに貰われていった。
 現地ニーズの把握と現地との連携、スピーディーな対応が大切だと思った。
 さとやま交流館でも、災害後は、現地ニーズの把握に先ず努めている。

阪神大震災から30年 その4

 神戸での活動は様々でした。
 断水した高層マンションで、両手に水タンク20リットルをもって階段上がった。
 特に高齢者ばかりのシルバーマンションは、何度も水を組み直して全戸を回った。ある部屋では、高齢のお爺さん一人、テレビを見て「まだわしらはいいよ。家が壊れてないから。市へ支援のお願いはできんよ。」と。さらに衝撃だったのは、地震後、部屋に来たのは私が初めてだと言う。もう1ヶ月近く経っているとうのにである。子供とは電話で話して、元気だと伝えたら、良かったと言うのみで、見に来てはいない。
 中は、タンスは倒れ、トイレのドアはノブが外れていた。そして部屋のメインとなる壁の絵の額縁が斜めになっている。中に入らせてもらって、タンスを起こしたり、トイレのノブも治すことができた。そして、額縁も水平に治した。部屋は見違えるように落ち着いた。お爺さんが、額縁が治ったらホッとしたと笑顔になった。些細なことでも、毎日生活する中では、大切なことだったのだ。
 センターに依頼は無いが、私らのやることはまだまだたくさんあると気づいた。そして、このままでは、孤立死が増えるのではと、危機感を持った。
 センターに戻り夕方の反省会でそれを伝えると、皆も同感だった。

2025年1月17日金曜日

阪神大震災から30年 その3


 翌日2月11日は、700人の避難者がいる小学校へ行った。
 学校の中は、体育館内はみんな全く隣の人と隔てる壁はなく、今で言うプライバシーは全く無い。
 校舎にはいると階段以外、廊下にもいっぱい、各教室も被災者でいっぱいでした。(朝ドラおむすびの震災時の描写はそのものだと感じました)
 玄関で支援物資や食事のお弁当などの受付があり、1日3回朝のパン、昼のパン、夜のお弁当が700程運ばれてきて、それを体育館や各教室へ配った。
 玄関横の倉庫には、配布前の支援物資がうず高く積まれていた。
中には、食料もあり、生ものもあった。各避難所に一人配置されている神戸市の職員に聞くと数が全員分無いから配れないとのこと。じゃあ、いつ配るのかと聞くにと、きっと配れないだろう、との事。それはせっかくの美味しい食材を棄てることを意味します。
 市役所の人は、平等が厳しいと思うが,我々ボランティアは、もう少し自由度があると認識していたので、ボランティアの判断でカステラのようなものなどを子供、高齢者を優先にして配り、足らなくなった人には乾パンやビスケットなどを配った。ほとんどの人は、それを喜んでくれたが、一部の人からクレームが出た。元気な40代50代の男性方だ。なぜ、私は乾パンなのかと、ボランティアが理解を求めて一生懸命説明したが、理解得られず、ボランティアの女の子は泣き出した。ボランティアセンターとも相談し、一旦その避難所からボランティアを引き上げた。被災者の方で、まとめ役を選んで欲しいとお願いした。
翌日1日は、その避難所の支援は休止した。その日の夕方、避難所からセンターに、まとめ役を選んだと連絡があり、翌日から支援を再開。その後は、ボランティアと被災者のまとめ役で一緒に考えて物資の配布などが効率的に、棄てることなく、配布できるようになった。
 避難所には、毎日、知り合いや家族がここに避難していないか訪ねて来られる方がたくさんいました。
 そして子供たちと遊んでやるのも、大切な支援でした。

阪神大震災から30年 その2

 広島からも多くのボランティアが神戸や大阪に駆けつけた。
 さとやま交流館の前理事長の柳生さんは、単身背中にお餅や米、ブルーシートなどをいっぱい背負って、歩いて大阪の知人のところに行った。交通が完全にシャットダウンしている中で、柳生さんが、来てくれたことに、その方は感激した。(朝ドラのおむすびの結のおじいちゃんみたいだ。それ以上だろう。)
 もう一人、盛谷も一人神戸へ向かった。当時、ボランティアという概念は、まだ今のように一般化しておらず、職場でボランティアの話をしても当初あまり好意的でない上司もいた。お前の仕事は、ここの今の仕事をする事だと。自分の仕事が大切な仕事だというのはわかるが、こういう時には、みんなが少しずつ仕事を止めて、応援しないと支援に必要な人は集まらないと感じた。
 2月に入ってもまだまだ大変な状況は変わらない。そして、好意的でなかった上司が行くなら、気をつけろ、これで電話報告せよとテレホンカード20枚くらいみんなで集めて渡してくれた。  
 妊娠中の妻も背中を押してくれた。家族や職場など周りの人の理解とご協力あってのボランティア、とその時にわかった。
 周りの理解があると、ボランティアに行くにも元気100倍、自分を後ろで応援してくれていると何をするにも、怖いものは無くなった。
 2月10日朝、大きなリュックサックいっぱいに水やサタケのマジックライスなどの食料、コッヘル、キャンプ用のガスコンロ、シュラフなどを詰めて東広島から新幹線で出発。姫路から山陽本線で神戸駅まで行けた。神戸から東は不通だ。
 神戸の手前、長田駅周辺で、焼け野原になった街を見て、被害は一体どれほどなのかと心が引き締まった。
 神戸に着くと地図を頼りに
日本赤十字社兵庫県支部を目指した。そこの倉庫に設けられた特設日赤ボランティアセンターでボランティア登録。その日は、センターの中を手伝ったり、アマチュア無線の免許とトランシーバーを持って来ていたことから、無線によるボランティアとの連絡をする有資格者としての登録をした。

阪神大震災から30年

 1995年1月17日午前5時46分、淡路島北部で最大震度7を記録する地震が発生。
 その数秒後には、広島でも震度4の揺れ。縦揺れの後、横揺れまで時間が少しあったので、これはかなり遠くで大きな地震があったと直感。すぐに今のテレビを付けた。強い地震が神戸であったと伝えるも、まだ被害の報告はないというアナウンスばかり。少し明るくなって、ヘリコプターの映像が、アナウンサーは淡々と、高速道路が倒れています。火災も発生しております。と淡々と続けた。
 見ているこちらは、大変な状況だとすぐわかった。
 8時30分出勤。テレビは付けっぱなしだった。その向こうで6,434人の尊い命が奪われ、ものすごくたくさんの家が倒壊破損し、避難所となった学校などは避難された方であふれていた。

2025年1月15日水曜日

漁港の復興 まだ道遠し

 能登半島地震の傷,まだ癒えぬ。
記事によると石川県内の「水産関連は被害を受けた県内72港のうち62港が復旧し、使用可能となった。残る10港のうち6港は順次工事を進めているが、輪島市に立地する黒島、皆月、大沢、深見4漁港は地盤の隆起が深刻で、復旧のめどが立っていない。」
 輪島の朝市には新鮮な海産物は必須。地域の重要な産業だ。
 国はもたもたせず、復興の舵取りを!

2025年1月14日火曜日

EGG(草の根国際交流協会)

 EGG(草の根国際交流協会)Evegreen Grassroots Group
 さとやま交流館と同じく広島県北、三次市で活動する国際交流グループです。
 三次で、1991年の設立以来、代表者の神岡百合美さんや仲間の方で、県北在住の外国から来られた方々のサポートなどを、交流の場を作ることで34年間続けて来られました。
 さとやま交流館も交流という名を冠していますが、人の幸せとはなんだ、交流の大切さを痛烈に感じているところです。
 柳生前理事長によるさとやま「交流」館の命名の奥深さを感じます。
 昨年元旦の能登半島地震発生後は、EGGの皆さん(外国から来られて県北に住んでおられる多くの方)から能登への支援として多くの防寒着や文房具柳生支援金などのお気持ちをさとやま交流館が預かりました。
 能登への活動は、EGGの皆さんの気持ちも常に持って行っています。

2025年1月13日月曜日

あなたの笑顔が見たい

 能登で、これから必要となるもの。
 能登で必要なことは、被災者が今までのように隣近所の人とお茶飲みながら話ができることだと感じました。
仮設には、あちこちの町の人が混在しており、またそれぞれの町のリーダーも不在でまとまりが難しい地域が多く、隣と話がしにくい。また、仮設は狭くて近所の人が寄ってお茶と菓子で話をする場所がない。今は寒いから、外ではあり得ない。
 仮設集会所があるけど、鍵が掛かり自由には使えない。仙台では、管理のために臨時職員を雇って、いつもオープンさせて、皆さんが、お茶を飲みに寄れるスペースとして有効に使われていました。
 今回、急遽お茶100本を買い、ブルーベリーケーキを食べながら話ができる臨時さとやま交流サロンを開いたところ、皆さん喜んでくれました。
 これからは、この集会所が、仮設の皆さんが気軽に寄って、お茶飲みながら話が出来る場所になることを祈ります。何かわれわれに出来ることはないか自問するばかり。

棚卸し

 天井までいっぱいにして運んだ防寒着や毛布ふとん類でしたが、余ったのはわずかこれだけでした
 置いておける場所があれば、これなかった方のために全て置いておくこともできるのですが、今回は、場所が無かったため、一旦全て持って帰りました。
 今回、余ったのは新品の和掛け布団2つと主に子供用の防寒着です。布団は今は布団らしく膨らんでいますが、行く時には、圧縮して10cm以下になっていましたので、渡せた量の多さがわかります。これらは、ニーズがあればまた活用します。
 広島のたくさんの方々から預かった防寒着等が、輪島の皆さんに有効に使っていただくことになりましたことを報告します。

2025年1月12日日曜日

あなたの笑顔が見たい


 今回は、防寒着300着、毛布ふとん30枚、セーター類100着、カイロ300個、タオル150、ポケットテッシュ500個、鉛筆150本、ボールペン100本、色鉛筆、カレンダーたくさん、ノート200冊、など、広島の皆様から預かった支援物資を持って来ました。
 防寒着は、男性向きのものが150くらいありましたが、ほとんど全てを渡すことができ、女性向きの100着あまりも10を残す程度、今回子供用も四十くらい持って行きましたが、これはほとんど残りました。子供が遠くの街へ行ってしまっていないんだとみな嘆いておられました。その関係で小学生向けの国語,算数用のノート200余りはかなり残ることとなりました。そのほかのものは、ほとんど皆さんが自分で選んで持って帰っていただくことができました。
良かったです。
 これで少しでも、寒さが和らげばと思うばかりです。

庄原が一番雪多い?

 庄原に帰ると50cmの雪は溶けてはいるもののまだまだ多くて、ハイエースが所定の位置に止められず。
 家の前は、歩くところもない。
 明日は雪かきだ!

7回目の能登半島地震被災地支援活動 無事終了

 1月12日午前2時
 無事、予定通りみよしまちづくりセンターへ帰着しました。
 帰ってみると今回も私たちの方が能登の皆さんからいっぱいの元気をもらったような気がします。
 三竿さん、中野さん、盛谷さん0泊3日の弾丸支援ご苦労様でした。
 現地はまだまだ、いろんな応援支援が必要です。次の活動をお待ちしております。
 能登の皆さん、わたしたちを,暖かく迎え入れていただきありがとうございました。

2025年1月11日土曜日

あなたの笑顔が見たい

 嬉しい再会。
 10月に農林業ボランティアの縁で出会った石川県の島袋さんと再会。金沢のデパートの地下で石川
ジビエの即売会に休日出勤。
 農林業ボランティアの募集などの事務をされている宮田さんとともに金沢の中心地で。お百姓さんの敵、イノシシジビエの展示販売。
 タネを巻いても、苗を植えても、美味しくできて収穫前夜に美味しいところをぜんぶたべてしまうイノシシや鹿。可愛いなどと言っておられません。野生のイノシシ達よ、山に帰っておくれ。
と言った所で、帰る訳もなく止む無く、捕獲。でも日本ではいただきますの精神です。美味しく頂いて、感謝する。それが日本という国です。
 休日返上で仕事を頑張っておられるお二人にも感謝です。
 次回の再会を約束しました。
 また会いましょう!

あなたのが見たい

 輪島の山原さんとも再会できました。
 ご自宅は、地震で被災してすまないため、市内で仮住まいされていた所、9月豪雨で、その家が床下浸水。
 周りの家は、解体が始まっているとの事。先月持って行った新米を高齢のお父さんが美味しいと食べてくださっているとの事。百姓として、嬉しいことです。
 また次回会いましょう。

あなたの笑顔が見たい

 急遽、お茶を100本買って、臨時さとやま交流サロン開店。
 集会所の角に席を設けて、さとやま交流館特製のブルーベリーケーキとお茶で,おもてなし。
 2次避難の時には話がまだできたが、仮設住宅に入ってからはご近所の方との話もできなくなって、かえって孤立化しているとの事。
 さとやま交流館の臨時サロンも思わぬ大賑わい。
 皆さんの会話も弾み、笑顔がいっぱい見れました。

あなたの笑顔が見たい

 たくさん用意した防寒着がみるみる新しいご主人様にもらわれていきました。

あなたの笑顔が見たい

 1月11日8時30分 輪島市マリンタウン第2仮設住宅に到着。山下深見町総区長ご夫妻に出迎えていただきました。
 仮設の集会所の中に、防寒着300着、毛布類30枚などをならべて、9時30分配布開始。
 直後から続々と仮設やみなし仮設などの方がお越しになり、お好きなものを選んで頂きました。
 皆さんの笑顔と明るい声に寝ずの弾丸行の疲れも吹き飛びました。

あなたの笑顔が見たい

 1月11日3時20分 旧輪島駅「道の駅フラット輪島」に無事到着しました。
 道中、舞鶴道、北陸道では、土砂降りのような雪にビックリしましたが、通行止め直前に通過できました。 (通過後に両高速とも雪のため通行止めになりました。)
 朝7時起床 落田ベーカリーのナッツパンと森宗柳生サンドイッチ専門店のサンドイッチで朝食。
 空には雲の間に、青空も少し、今日一日頑張る精気がみなぎって来ました。
 今日一日頑張ります。

ゲリラ豪雪の手前

 北陸道では、乾いていた路面が瞬時に真っ白に!
 1月11日午前0時頃、敦賀インター付近。

あなたの笑顔が見たい

 1月11日3時20分 旧輪島駅「フラット輪島」に無事到着しました。
 道中、舞鶴道、北陸道では、土砂降りのような雪にビックリしましたが、通行止め直前に通過できました。
 朝7時起床 落田ベーカリーのナッツパンと森宗柳生サンドイッチ専門店のサンドイッチで朝食。
 空には雲の間に、青空も少し、今日一日頑張る精気がみなぎって来ました。
 今日一日頑張ります。

2025年1月10日金曜日

雪が降る

 三次から東城までは雪があったが、その後、中国道から舞鶴若狭道とゆきのゆの字も無いからから乾燥していましたが、舞鶴道京都にはいると福知山から吹雪。
路面も白い。
 安全運転!安全運転!

あなたの笑顔が見たい

 1月10日(金)17:20 森宗さん、柳生さん,林さんのお見送りを得て,輪島へ向かって出発しました。
 今回は、防寒着300着、毛布ふとん30枚、セーター類100着、カイロ300個、タオル150、ポケットテッシュ500個など、多くの方から預かった支援物資を一年で最も寒いこの時期を仮設住宅で、過ごされている方々にお渡しします。
 輪島市は、今朝10cmほどの積雪だったとのこと。日本海から吹く寒風に少しでも寒さを和らげていただければ幸いです。
 明日朝08時30分,輪島市到着予定です。
 今回は、東北支援の常連、中野さん、三竿さん、盛谷さんの3名。もう一人は、家族のインフルエンザ罹患で、やむを得ず辞退。被災者支援活動の猛者3名で行って来ます。
 雪が最もしんぱいされました。
今朝の段階では、中国道、舞鶴道、北陸道と全ての道路で通行止めがあり、一時は、東海周りのコースか、最悪延期かと思われましたが、12:30には、能登に至る全ての高速道路の通行止めが解除されました。
 現在、一行は、中国道を岡山県の津山市を通過中です。
 安全運転で行って来ます。
 あなたの笑顔が見たい。

能登への道

能登への道。 
舞鶴若狭道 通行止め
名神高速  通行止め
北陸道   通行止め
北陸道を通るルートは全てアウト。
でも良く見ると有った!能登へ通ずる道が!
三次から尾道、山陽道、新名神、伊勢湾岸道、新東名、東海北陸道、富山から能越道と一本ラインが通じていました。
道が開けた!

北陸道通行止め

北陸道も通行止め
「1月10日
 2:00現在

以下の区間が通行止になりました。

■通行止
▼北陸道
米原JCT→敦賀IC
(下り新潟方面) 雪 」

山陽道経由で名神高速道路〜北陸道が大雪時の最後の砦
今日の昼に解除されることを祈っております。

明日には、広島の皆さんの気持ちを持って輪島に行きます。

舞鶴若狭道も通行止め

ついに舞鶴若狭道も通行止め
「1月10日
    2:00現在

以下の区間が通行止になりました。

■通行止
▼舞鶴若狭道
若狭美浜IC→敦賀JCT
(下り敦賀方面) 雪  」

今日の夜には解除になりますように。

高速道路通行止め

中国自動車道
広島県内が通行止め
以下、ネクスコからのメール
「1月9日 20:20現在
以下の、区間が通行止になりました。

■通行止
▼中国道
広島北JCT→新見IC
(上り吹田方面) 雪」

明日は、通れる道はあるのだろうか?
松江自動車道も国道54号も通行止め。
とほほ。

大雪の気配あり

三次の町も雪雪雪!
帰宅途中は、ホワイトアウトも!
家の前は、30cmは余裕である。
明日はいよいよ出発です。
能登も雪模様。
雪中行軍になりそうです。

活動準備

1月9日21時
毛布や防寒着を,圧縮袋でコンパクト化。あとは、明日残りを積みます。外は大雪!寒っ!

2025年1月7日火曜日

支援物資の準備着々

 1月4日.広島の藤本さんから、毛布、防寒着、カイロ、タオル、文房具など支援物資や熱い気持ちがこもった支援金をわざわざ庄原まで持ってきていただきました。
 ありがとうございます。
 熱い気持ちを被災地へ必ず届けます。
 昨日防寒着の仕分け作業をして、準備着々。1月9日木曜日19時から、さとやま交流館三次事務所にて、毛布、布団、防寒着の積込みをします。
 輪島市の総区長さんとも連絡調整ずみです。
 雪マークが出ていますが、早めに出て、余裕を持って行きます。
 輪島市マリンタウン第2仮設住宅の皆さん待っていて下さい。

あなたの笑顔が見たい

次回活動メンバー決定!
猛者集まる!
東北支援のベテラン4名。
部谷さん,中野さん、三竿さん、盛谷さんの4名で、今週金曜日17時、三次を出発します。